館川ダム
赤木七重林道・都幾川林道を経由して霊山院、慈光寺に行くハイキングコースがあります。


大字腰越・赤木地区の風景
tag : 小川町
一二三の森整備事業(坂戸市入西地区堀込)








造り酒屋・権田酒造界隈(熊谷市三ヶ尻)
荒幡富士(所沢市)



頂上から所沢市街地方面の眺望
※民衆の心をひとつに 荒幡の富士(所沢市立図書館HPより引用)(西暦を追加)
荒幡村は、明治24年(1891)に吾妻村の一部となりましたが、小字ごとに鎮守があり民心が統一されないおそれがありました。
そこで、合併に先立つ明治14年(1881)、三島神社、松尾神社、氷川神社、神明神社の4社を村社浅間神社に合祀しました。
このような神社合祀による、村民の民心統一は明治政府の意図したものであり、全国的に行われていました。
さらに明治17年(1884)、村民たちの手によって、浅間神社境内にあった富士山をさらに大きくして移築することになりました。
本来、富士山築造は富士山信仰の氏子たちによって行われるものです。
しかし、この浅間神社の富士山移築は、民心のさらなる統一をはかるために行われた事業でした。
同年(1884)2月から村に住む青年たちが中心となって起工すると、近隣の村からも信徒が加わって、延べ1万人が参加したといわれています。
青年たちは、農閑期などに総出動し、もっこ(持籠)に土を入れてバケツリレーのように運び、ざるに土を入れて積み上げてゆきました。すべてが村民たちによる手作業でした。
この長く辛い共同作業によって村民の心はひとつになってゆきました。
そして、およそ15年の歳月をかけて、明治32年(1899)に、約10mにもおよぶ荒幡の富士は完成しました。
この頃、人工の富士山は数多く造られましたが、荒幡の新富士は「東京付近随一の傑作」と称されています。
大正12年(1923)、関東大震災で8合目まで崩れましたが、2年がかりで修復されました。
現在は、所沢市の指定文化財となり、地元、荒幡富士保存会の方々によって管理保存されています。
狭山丘陵の稜線上に築かれた頂上から望む雄大な景観は格別です。
明治の文豪、大町桂月は、何度となくこの地を訪れ、この眺望を褒め称えたとのことです。
大正10年(1921)3月には、大町桂月の撰文で、「荒幡新富士築山の碑」が建てられています。(F)
八州の我に朝する青葉かな 桂月
※大町桂月(1869 - 1925)は十和田湖でも「北に恐山一群の山,みな遙に我に朝するが如し」
※埼玉県の富士塚リスト→「富士塚 埼玉県の富士塚・浅間神社など」
tag : 所沢市
堀上げ田・ほっつけ(埼玉県南埼玉郡宮代町)

森の市場・結の近くにあります。



新しい村のある山崎地区は、山崎山と呼ばれる雑木林(埼玉みどりのトラスト保全第5号地)の台地と笠原沼とが接している地域。江戸時代に人々は沼を堀上げ、細い深い沼と堀上げた土でできた田んぼを作りました。これが「堀上げ田」と呼ばれる新田となりました。新しい村の建設とともに「堀上げ田」が復元され、体験田んぼとして利用されています。
「ほっつけ」とは? (電脳みやしろより引用)

宮代町内では一般的に櫛の歯状に作られた耕作部分を堀上田と呼び、耕作部分に挟まれた水路部分をホッツケと呼んでいます。これらは、沼地や窪地など水がたまりやすい地域の水田開発や排水不良をおこしている水田の水腐れ等の被害を軽減させるためにつくられました。工法は、沼底を更に掘り込み、そこから出た土を周囲に盛り上げることで耕作面のかさ上げをしました。

こうして、元々沼であった場所を田んぼに変えることができたのです。堀上田での作付けの方法は、まず、横手堤の石橋の所にある中水道の堰を閉めることで水位を上げ、水を溢れ出させ、田面に水を引き入れました。しかし、笠原沼田んぼの一番低い場所に水位を合わせるため、それより高い場所は用水から水を引きました。百間側では逆井新田落堀(メイセイボリ)から須賀や蓮谷、久米原側では中須用水から水を引いていたのです。刈り採る時には、中水道の堰を開け水位を下げ稲刈りをしました。
通常、中水道近辺は土地が低いため水はけが悪いように思えますが堀があることで水はけが良く、かえって、土地が若干高い「五丁」という場所は、水はけが悪く二毛作に向いていなかったようです
tag : 宮代町
比企のことば すいはく
……(ヤギの)乳を搾り終わったら、入れ物を持って勝手に行き、すいはくをビンなどの上にのせ、その上にゴミ濾し用の布巾などを乗せて、上から山羊の乳を注ぎます。/すると、乳はすいはくの出口からビンなどの中に注がれ、山羊の乳の中に混ざってしまった山羊の毛などのごみは取り除かれます。そしてその乳は、沸騰消毒して一連の作業は終わりとなります。(大塚基氏「ヤギの世話」)
4月の声を聞いて南からの風が吹き始めると、川の魚も活発に動き始めます。/子供たちも春の暖かさにつられてガラスうけを川に設置して、小魚を捕ることに目覚めます。/あちら此方の店でガラスうけを売っていたので、子供は買ってきて川に設置しました。/設置の方法は、手ぬぐい等の布を四角に切って、ガラスうけの口にかぶせて、ガラスうけの首の所に輪ゴムで止めたり、紐で縛って口を塞いで魚が逃げないようにしました。/そして、煎って芳ばしい香りをもたした小糠を、小魚が入ったら出られないようにすいはく(当地方ではすいはくと言うが、漏斗と書いてロウト、ジョウゴと呼ぶ地帯がおおい)の形になっているガラスうけの尻からいれて、魚が居ると思われる場所に持っていって水の中に尻のほうから入れて沈めました。/ガラスうけの口のところにかぶせた布の目が細かくて、中の空気が抜けずに水が入らないときには、口にかぶせた布に釘などを刺して空気穴を開けて水を入れて沈めました。/そして、ガラスうけを沈めても引っ張りあげられるように、ガラスうけの首のところに紐を縛り付けて、その紐の端を杭や川辺に生えている木などに縛り付けて固定しておきました。/ガラスうけを設置する深さは、川の中を泳ぎまわる小魚を対象にするのであまり深くない所にしましたが、場所によっては結構深いところに設置してしまうこともありました。しかしそんな時には、どじょうや海老蟹などが入る確立が増えてきます。/ガラスうけで魚を取る方法は、ガラスうけを川底に設置すると、中に入れた煎り小糠がガラスうけの尻の穴から少しこぼれだし香りが周りにたちこめるので、その香りに集まってきた小魚がガラスうけのすいはく形になっている尻穴を見つけ出して中に入るというものです。/入った魚は、煎り小糠を食べるのに夢中になったり、出ようと思っても入った所がすいはくの形になっているので見つからず、ガラスうけの中に閉じ込められてしまうというものです。(大塚基氏「ガラス筌(うけ)」)
※すいはく:漏斗(じょうご)(方言)栃木県、群馬県勢多郡、埼玉県秩父郡、新潟県、《しいはく》埼玉県秩父郡(←日本国語大辞典)
※すいはく:漏斗の一種。酒を樽に移すもの。 茨城
漏斗類一般:栃木、群馬。(←昔の茨城弁集)
※「吸い込んで出す器具をスイハクという」
上部の口が広く、下部の口が狭くすぼまっていて、穴のあいている金属製、または木製・竹製の器具を漏斗(じょうご)といいます。これは水や酒のような液体を、瓶(びん)や徳利(とっくり)などの口に注ぎ入れるときに用いるものです。漏斗は液体が漏(も)れる斗(ます)のようなもの、ということから当てられた漢字です。/ところで、佐野では漏斗のことを、昔からカナジョーゴまたはスイハクといっていました。昔の漏斗は、ほとんど木製か竹製でした。後世になって金属の漏斗が作られるようになると、漏斗の頭に「金」を添えて、カナジョーゴという新しい方言が生まれました。漏斗は、液体を吸い込むと同時に下からそれを吐き出すことから、「吸い吐く」というようになり、それがそのまま方言「スイハク」となって残りました。(←佐野弁バンザイ2009年3月)
那珂川県立自然公園の鎌倉山




tag : 栃木県
市野川羽尾B・C地区 4月6日
お勝手と台所
住宅団地はダイニングキッチンと二部屋の間取り(2DK)


台所と茶の間 昭和40年(1965)ころ
この部屋は、昭和35年(1960)ごろから東藤沢の新しい住宅地(角栄団地)にたくさん建てられた家をモデルにしています。広さ3畳ぐらいの台所にはガスがひいてあり、水道のじゃ口が一つありました。テーブルといすをおいて家族が食事をしたそうです。障子のむこうは4畳半と6畳の部屋になっていて、ほかにお風呂とトイレがあり、小さな庭もありました。こうした家は、東京につとめに行く人たちが電車で通うのに便利な入間市にその後もたくさんつくられ、おおぜいの人たちがうつり住んできました。新しい住人たちは、それまで多かった農家とは生活のしかたが大きくちがい、新しい道具や楽しみも持ちこんで来ました。(展示解説)
農家の間取り


食事をする部屋(おかって)
農家では食事をする場所は、朝や昼は農作業でよごれているので、土間でとることもありましたが、たいていは裏口に近い板の間でした。たいていは裏口に近い板の間でした。この部屋は、冬寒くなると、うすべりという敷物をしきました。風が強くふく日は、下からの風でうすべりがもちあがることもあったそうです。(展示解説)
女性のグループが「お勝手って、台所のことじゃないかしら。」と語っていました。「農家のまどり 昭和10年代前半」の図では、土間にカマドがあります。あがりはなの奥のうすべりの敷いてあるいろりのある部屋のすみの板の間にみずがめ・流し・台所があり、「かって」と書かれています。隣のうすべり敷きの戸棚のある部屋には(食事)、「かって」とあります。食事をする部屋も「勝手」なのでしょうか。
台所(『国史大辞典』):台盤所(だいばんどころ)の略。したがって本来は配膳室の意であるが、中世以降武家住宅では調理・配膳を行う所をすべて台所と称した。(略)一方民家では土間に面する奥の部屋をダイドコロと称する地域が全国的に分布する。ここに炉が切ってある場合が多く、家族の最も内向きの生活、すなわち炊事作業の一部、家族の食事やだんらん、坐って行われる仕事などに用いられる。
勝手(『日本国語大辞典):(略)(5)台所。また、そこで働く者。台所がある方向から、裏口やふだんの居間をいうこともある。(略)【方言】(略)(3)土間の炊事場に続く板敷きの間。いろりがあり食事する場所になる。(略)(4)居間。茶の間。(5)流し。(略)
「台所」には「調理・炊事作業の一部をする場所」のほかに「食事をする場所」を指す場合がある。「勝手」にも「台所」の意味だけでなく「食事をする場所」を指すことがあるということです。「食事をする部屋(おかって)」という呼称はまちがいではありません。
2DKの間取り
ダイニングキッチン(ウィキペディア):1951年に建設省が定める「公営住宅標準設計」の規格51C型において、台所を広めに作って食事室と兼用とし、居室2つ(6畳、4畳半)を配する間取りが確立された。/規格51C型は西山卯三の住宅研究の成果に基づくもので、人間らしい暮らしのため食事の場所と寝る場所は分けるべきであり(食寝分離)、またプライバシーの観点から夫婦と子どもの寝室は分けるべきである(就寝分離)、という2つの原則によっていた。食事室兼用の台所(後にダイニングキッチン)を設けることで、寝室とは明確に区別された食事の場所を確保したのである。/ダイニングキッチンを持つDK型の間取りは、1955年に設立された日本住宅公団の標準設計(2DK55型)にも採用された。従来の一般の庶民住宅では、畳敷きの茶の間でちゃぶ台を囲んで家族が食事をしていた。それに比べ、テーブル式の団地のダイニングキッチンはモダンな生活の象徴と受け止められた。実際には調理のスペースと食事のスペースを兼用とし、住宅の面積を節約するための苦肉の策でもあった。/DK型の間取りは公団住宅をはじめ、民間のマンション、戸建て住宅などにも採用されるようになり、広く一般に普及した。/さらに生活水準の向上とともに、ダイニングキッチンよりもゆとりのある広さの部屋として、リビング・ダイニング・キッチン(略称「LDK」)が作られるようになった。居間・台所・食堂の機能を1室に併存させた部屋である。
「食寝分離」と「就寝分離」の原則
西山卯三さんが庶民住宅の住み方調査から、(食事と就寝を同一の部屋で兼用していたというのは思い込みで)食事と就寝の部屋を分けた住み方が続いてきたことを明らかにし、さらに進んで、プライバシーの確立の観点から夫婦と子供で、さらに子供の性別で寝る部屋を分ける「就寝分離」の間取りを確保するために、1950年代、2DKの間取りが公団住宅・戸建て住宅にも採用され普及したということです。2DKでは「就寝分離」はむずかしかったでしょうが。
tag : 入間市博物館アリット
市野川羽尾B・C地区 2月6日
富士山・笠山 2月6日
都幾川高野橋から見た雪晴れの山々 2月5日
市野川羽尾B・C地区 2月4日

市野川高橋から午前10時半に撮影

午後4時頃撮影
夕方には雪はあがっています。明朝の路面の凍結が心配です。
B地区本川(蛇行河川)の入り口は埋まってしまっています。2010年4月から2012年9月までのこのアングルの写真は、『GO!GO!嵐山3』のカテゴリー「市野川水系」で多数見られます。B地区の蛇行河川が文字通り本川であった時期から、C地区に直線の新川が掘られ、B地区本川(蛇行河川)入り口が大雨の度に埋まっていった2年半の記録です。例えば、3年前の2010年2月5日の写真。
大塚稲荷
『滑川村史 民俗編』(1984年10月)338頁には、「大塚荒太郎氏宅の北東の林の中に社があり、月輪下組の大塚イッケ10数戸と、周辺の数戸で祀っている。以前はイッケの家だけだったが、現在では転入してきた家も加わっている。4月5日が祭日で、稲荷講といい、神主が拝み、宮元の荒太郎氏宅を宿にして酒を飲む。祭日には赤飯を炊き、以前は団子も作った。毎年回り番で二戸が役員になる。大塚姓の家と転入者の家が組むことが多く、荒太郎氏宅は役員にならない。神主は高坂氏である。天明7年(1787)に正一位となった際の文書が荒太郎氏宅に残っている。


社殿の中に掛けてある「大塚稲荷改築寄附者芳名録」(2010年3月)には、大塚姓17人と大塚姓以外5人の名前がある。

享保20乙卯(いつぼう)年(1735年)の石祠
滑川町郷土かるた あ
滑川町郷土かるた ゆ
滑川町郷土かるた つ
長山稲荷 嵐山町川島
権田重良さんの「長山稲荷の不思議な体験」(http://satoyamanokai.blog.ocn.ne.jp/sekizoubututyousakai/2008/11/post_ddf9.html)を転載します。長山稲荷の場所は、リンク先に地図を貼り付けています。


長山稲荷の不思議な体験 権田重良
滑川町大字月輪字矢尻の北側境から熊谷玉川県道に至る雑木林の中を通る人通りもない小路の途中に、地元の古老以外知らない小さな稲荷様の祠(ほこら)がひっそり建っている。この稲荷を長山稲荷といい、近年、朽ち果てていた小さな鳥居は新しく立て替えられた。
この道は小川方面から松山に至る街道として、また鬼鎮神社の繁栄に伴い東からの鬼神街道として、戦前までは多くの人々が行き交い、稲荷神社も毎年例祭が行われていたと聞いている。月輪境の三叉路と県道の四ツ辻(十字路)にあった鬼神道の道標も周囲の開発によりいつしかなくなってしまったが、稲荷前の小路を過ぎ、県道を横切り、住宅地内を北に向かう道がわずかにその名残(なごり)を留めている。
昭和五十四年(1979)、東松山-前橋間が開通した関越道は川島の東側、字屋田地内を通っている。その工事に伴い、昭和五十年(1975)初めに森田武治氏宅が移転と決まり、長山稲荷南側の月輪境に屋敷替えすることになった。新築に伴う上水道工事は地元の業者として私が請け負った。当時、県道の北側には農家以外に住宅はなく、水道配管は初雁安行氏宅裏の道より、鬼神道跡と言われた畑中の道を通り、県道を横切り、稲荷様の山道を月輪境の新築現場まで、長い距離(300m)をひかなければならなかった。当時の配管工事は、大きな掘削機もなく、刃のついたチェーンが回転して穴掘りをするトレンチャーと呼ぶ小型のものとほとんど人力によるものだったので、道路分の配管工事完成に数週間かかった。工事現場まで通水し、その後しばらくして森田家の新築工事が完成し、無事移転が終わったのである。森田さんのお宅は、数年前にご主人の武治さんが亡くなり、働き者の奥さんのやすさんとお子さんたちとで新居の生活が始まった。
後日、工事代金を支払うので来るようにとの連絡があり伺うと、大変ご苦労戴いたと酒肴が用意されており、精算を済ませて、大変御馳走になった。当時は、仕事の完成時に酒は慣例で、酒好きの私は一杯、二杯と酒が進み、かなり時間が過ぎていった。奥さんも新築完成の喜びか、知り合いの工事店相手の気安さか酒が進み、一升瓶の残りが少なくなって来た頃、笑顔で喜びのやすさんの顔と様子が変わって来た。酒が好きだとの世間の噂が思い出されて、夜も遅く時間も過ぎたのでとお礼を述べて帰ろうとすると、突然、やすさんが髪を振り乱して大声を上げた。
『お前は人様の家の前で穴掘り仕事をして、挨拶の一言もないのは何事だ』。突然の大声にのけぞって、、酒がまわり青白くなったやすさんの顔を見ると、一瞬、長山稲荷の狐の置物の顔に見えた。ご馳走酒のまわった私はぞっとして背筋が寒くなった。まぎれもない狐の顔に驚いて見直すと、大笑いをし、上機嫌で酒をすすめていた顔に変わりはない。何事のないやすさんの様子に冷や汗の私は、早々に新築の家を出た。
工事の際、迷惑のかかる近隣の家に対する挨拶は施工業者の常識だが、今回は畑中の道や林の小路の工事だから必要ないと思い込み、無信心の私は稲荷荷神社の前で一度も手を合わさずに通り過ぎていた。数週間の工事期間中の事を思い出し、その夜はなかなか寝付かれずに過ぎていった。不思議な事と思いながらも非常識な私に対する長山稲荷の戒めと思い、翌朝早々に参詣に伺い、今後の仕事の安全を願った。
工事業者として四十数年間を無事に過ごせたのも、この不思議な体験による戒めが私の人生に意義あるものとなったからだと、平成十五年(2003)の現在も忘れられぬ思い出である。
市野川流域下水道のマンホールのふたのデザイン
現役のオート三輪発見
移送されるアライグマ
埼玉県では、「埼玉県アライグマ防除実施計画」に基づき、行政による捕獲活動が進められています。「アライグマ(この計画ではカニクイアライグマを含む。)は北米や中南米が原産で、ペットとして輸入され飼われていたものが、逃げたり、捨てられたりして国内各地で野生化している。県内では、野生化したアライグマによる農作物への被害や、人家に住みつく等の生活被害が平成18年度から急激に増加している。被害や生息の情報は、現在、県内46市町村に及んでいる。また、天敵がなく雑食性で強い繁殖力を持っていることから、生息密度の高い地域では、在来の野生動物や生態系に、既に悪影響が出ているのではないかと懸念されているところである。このままでは、急激に個体数が増加し、それに伴い農作物への被害や、生活環境被害が急速に拡大し、分布も全県に拡大するおそれがある。このため、「特定外来生物による生態系等に係る被害の防止に関する法律」(平成16年法律第78号。以下「外来生物法」という。)に基づき、県内市町村や関係機関と連携を図り、平成19年3月9日から平成23年3月31日までを第1次及び第2次計画期間として、計画的な防除対策を実施したところである。これまでの防除により、農業被害や生活被害の急激な拡大をある程度抑制することができたが、依然としてこれらの被害は高い頻度で発生している状況である。よって、アライグマによる各種被害の防止を目的として、計画的な防除対策を継続して実施するものである。」(「埼玉県アライグマ防除実施計画」計画策定の背景と目的より)

昨年の夏、岩殿の愛弘園の側でシカの群を見ておどろきました。岩殿田んぼでも偶蹄目の動物の足あとがあり、シカだが来たのだと思いました。生息域を拡げているのですね。
カラスの群れ




「多くの鳥にとって巣と眠る所は別々です。巣は卵を産み、雛を育てるだけのところ、ヒトでいえば産院のベッドと同じくらいの意味しかありません。ですから、雛が巣立ってしまえば、もう巣には戻らないのが普通です。そのため、通常、夜を過ごす所をねぐらと呼んでいます。鳥は、単独でねぐらをとるものと集まって集団でねぐらをとるものがいます。ハシブトガラスとハシボソガラスは、集団でねぐらをとる鳥の代表です。ハシブトガラスの本来のねぐらは、丘陵地や山の中腹の森林です。都会では、大型の緑地である公園、神社、お寺などに集まって夜を過ごします。ねぐらは、数羽ほどの小さなものから、中規模なねぐらで1,000羽程度。大規模なものでは10,000羽近くになるといわれています。なわばりを持つつがいは、なわばりで昼間を過ごし、まだなわばりの持てない若鳥は小さな群れでそれぞれの採餌場所で過ごし、夕方になると三々五々ねぐら周辺に集まってきます。ねぐらに入るカラスの数を数えることにより、その地域に生息するカラスの数のおおよその生息数を推し量ることができます(→85ページ参照)。ただし、ねぐらに集まる数は、秋から冬にかけて多くなり、季節によって変動があります。鳥の多くが、このように集団でねぐらを作る理由はいくつかあります。群れることでタカなどの天敵が来た時にいち早く見つけることができること、群れでいることで伴侶に出会いやすいこと、前日に良い採餌場所を見つけたものが自信を持って飛んでいくのを見つけたらその後をついていけば食べ物にありつける確率が高くなることなどの理由が考えられています(→114ページ参照)。(環境省自然環境局『自治体担当者のためのカラス対策マニュアル』12頁、2001年)